3月5日事前合宿最終日の練習。今日が最後だ。
長田弘幸は、射撃のトレーニングを行った。
1kmコースを走り、心拍を最高に上げ射座に入る。
7回射撃を行い、初弾タイムは15秒~22秒、起き上がりまでの射撃タイムは30秒~37秒だ。
命中率は、77%だった。
僕は、よく、ここまで復活できたと思い、目頭が熱くなった。
なぜかと言うと、6か月前のことだった。
長田弘幸は、射撃のトレーニングを行った。
1kmコースを走り、心拍を最高に上げ射座に入る。
7回射撃を行い、初弾タイムは15秒~22秒、起き上がりまでの射撃タイムは30秒~37秒だ。
命中率は、77%だった。
僕は、よく、ここまで復活できたと思い、目頭が熱くなった。
なぜかと言うと、6か月前のことだった。
(右目を諦め左目で射撃する。不屈の男 長田弘幸だ)
去年の10月7日、長田弘幸はお茶の水の日大病院にいた。
2時間以上の手術を受け、右目の失明を食い止めるためだった。
9月末のフィンランド合宿の朝。
車椅子で後ろに転倒。頭部を強打して「右目が見えなくなった」と言う。
急ぎ現地の病院に行き、診察を受けると網膜はく離と診断された。
急遽、僕と日本へ帰国した。
すぐ入院し、手術となったのだ。
2時間以上の手術を受け、右目の失明を食い止めるためだった。
9月末のフィンランド合宿の朝。
車椅子で後ろに転倒。頭部を強打して「右目が見えなくなった」と言う。
急ぎ現地の病院に行き、診察を受けると網膜はく離と診断された。
急遽、僕と日本へ帰国した。
すぐ入院し、手術となったのだ。
(網膜はく離、2時間以上の手術が終わる)
バンクーバーまでの、5か月前のことだった。
「もう、駄目かもしれない」と泣き崩れる長田を励ました。
「まだ時間があるから」「右目も、視力が回復するから」と。
自宅で療養する長田に、毎日のように電話をいれた。
元気のない声が返ってきたけれど、
僕は、「出来ることを探して、握力だけでもいいから身体を動かしてごらん」と激励した。
年末の頃、残念ながら、右目の視力は戻らなかった。
諦めかけようとしていた長田を旭川合宿に呼び出し、
もう一度、射撃にチャレンジさせた。
室内用のデジタル銃だったけれども、
「左目でも、やれるじゃないか」と褒めて励ました。
シットスキークラス、世界トップの命中率を誇っていた長田弘幸が、
プライドをすてて、命中率ゼロからのスタートだった。
満身創痍。
今思うと、ゼロからではなく、まさにマイナスからのスタートだった。
長田の不屈の闘志が、ここまで復活させた。
3月13日、バイアスロン競技だ。
もう、僕の瞳の中には、ゴールして雄叫びを上げる長田弘幸が映っている!
「もう、駄目かもしれない」と泣き崩れる長田を励ました。
「まだ時間があるから」「右目も、視力が回復するから」と。
自宅で療養する長田に、毎日のように電話をいれた。
元気のない声が返ってきたけれど、
僕は、「出来ることを探して、握力だけでもいいから身体を動かしてごらん」と激励した。
年末の頃、残念ながら、右目の視力は戻らなかった。
諦めかけようとしていた長田を旭川合宿に呼び出し、
もう一度、射撃にチャレンジさせた。
室内用のデジタル銃だったけれども、
「左目でも、やれるじゃないか」と褒めて励ました。
シットスキークラス、世界トップの命中率を誇っていた長田弘幸が、
プライドをすてて、命中率ゼロからのスタートだった。
満身創痍。
今思うと、ゼロからではなく、まさにマイナスからのスタートだった。
長田の不屈の闘志が、ここまで復活させた。
3月13日、バイアスロン競技だ。
もう、僕の瞳の中には、ゴールして雄叫びを上げる長田弘幸が映っている!
(長田と共に 15年戦ってきた)