アジアで初のワールドカップ、1998年の長野パラリンピック以来、念願だった国際大会を開くことができた。
当時、競技団体もなく、選手やコーチも少人数だったが、気持ちが大きく、若い選手やコーチたちと、「いつかは日本でワールドカップを開けるぐらい力をつけたいね」とみんなで夢を語ってきた。
そんな「夢」だったことが、現実となって、それも故郷の旭川で開催でき感無量だ。
ここまで、大変な道のりだったが、改めて、関係各位に、皆様全員に感謝します。そして大先輩の皆様にもご報告します。
(フラワーセレモニーの花束)
新田の得意な種目だったが、カナダのマークの逆転を許し悔しい4位だった。ただ、ソチパラリンピックの金メダリスト、ロシアのルーシャンにコンマ1秒の僅差で勝つことができた。強国のロシアの一角を崩すことができたことは大きく、明日のレースに繋がる結果になった。
(新田選手スタート)
応援の観客、メディアも多く凄い盛り上がりに、各国の監督たちも興奮していた。
(久保選手、ストレッチ中にインタビューしました)
(前走の子供たち)
(長田選手スタート)
(久保選手スタート)
(レースを終わって)